【コラム】豚骨の呪縛
東京と福岡では「ラーメン」という言葉が意味するものそのものが違う。東京におけるラーメンとは、フレンチやイタリアン、和食と同じく食文化や食のジャンルを指す一カテゴリを意味するのに対して、福岡で言うラーメンとは、ステーキやトンカツと同様に、料理の名前以上の意味を持たない。そして福岡におけるラーメンという言葉や概念は、豚骨ラーメンと同じであると言ってもいい。
これは言い換えるなら、イタリアンはスパゲティと同義であり、和食は天ぷらと同義であると言っているようなものだ。イタリアンにはピッツァもあれば、リゾットもビステッカもミネストローネもあるし、和食には寿司も鍋も煮物もあるのに、である。ラーメンにも醤油、味噌、塩、つけ麺など様々な味やスタイルが存在するのに、福岡では豚骨ラーメンがラーメンであり、他のものは語ることすら憚られる。
東京では「何ラーメンが好き?」「僕は醤油かな」「私は味噌」という会話はごく自然にあるが、福岡では成立しない。いきなり「どこのラーメンが好き?」「僕は安全食堂」「私はふくちゃん」ということになる。豚骨ラーメンという呼称は、他のラーメンと区別するために存在するのであって、豚骨ラーメン以外はラーメンに非ず、という福岡においては豚骨ラーメンという呼称がそもそも必要ではない。ラーメン、でいいのだ。
ここ最近になって、福岡市内でも豚骨を使わないラーメンに注目が集まりつつある。雑誌やテレビなどでは「非豚骨ラーメン」「脱豚骨ラーメン」という括りで取り上げられる。しかし、その区別を見てもいかに豚骨ラーメンの存在が大きいかが分かるというものだ。非豚骨ラーメン店を出す店の多くは、店頭に「当店には豚骨ラーメンはありません」などの注意書きを掲げなければならないほどである。
日本を飛び出し、今や世界の共通語となったラーメン。作り手の数だけ味があるというほど、ラーメンとは幅が広く奥が深い料理だ。そして習慣や因襲、固定観念に囚われることなく、作り手の想いを自由に表現する事が出来る料理だ。しかし福岡のラーメンには豚骨、細麺、替玉という縛りがあり、ラーメンで表現出来る世界が狭くなってしまっている。
食文化や民俗学的な観点からは、福岡はひたすら豚骨純潔路線を貫き、豚骨ラーメンという食べ物をより高めて磨き上げていく事も重要かも知れない。しかし、豚骨に縛られ過ぎてしまっている福岡の現状は、ラーメン文化や技術の発展向上という見地からも、消費者の選択肢の幅という意味からも、勿体無く残念なことではないかとも思う自分もいる。
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